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装丁仕事

120315

K君の思い出    


 二ヶ月に一度、翻訳物を扱う出版社と書評家豊崎由美さん旗頭の元、大きな本屋さんの喫茶コーナーを利用して毎回ゲストを迎え、海外文学好きな読者を集めてトークショーが開かれている。(入場無料)

 H12年2月25日、私は渋谷東急本店の7階にある丸善ジュンク堂書店渋谷店にいた。そんなところにそんな大きな書店が出来ていたとは知らずに、ゲストとして行った私は売り場の広さに驚き、本の多さに圧倒された。
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50個ほどのパイプ椅子が客で埋まると、トークショーは豊崎女史の軽妙な話術で参加者の笑いをとりながら昔の「SWITCH」の話から始まった。
 私のデザイナー人生を語る上でこの雑誌は避けて通れない。当時はとにかく何かにつけ日本の若者がアメリカ文化にまみれていた時代だった。ましてや60,70,80年代とアメリカン・カルチャーの影響をもろに浴びて育った世代には、アルファベットという記号は“かっこよさ”を象徴したもう一つの世代言語だった。

 27年前の1985年、新井敏記編集長が創刊したそんなアルファベット満載のサブカル・マガジン「SWITCH」に、私はアート・ディレクターとして4年間関わった。当時は広告も入らず予算もなく、あるのは情熱だけという雑誌作りだった。
 自分の好きな情報が今のように簡単に手に入る時代ではなかったので、当時は情報を得るために若者は雑誌を買った。

音楽、映画、文学、写真、旅といった海外の気になる情報を知るすべは、雑誌しかなかったからだ。中でもマニアックな情報に飢えた若い読者の情熱は熱く、狭く深く掘り下げるサブカルの蜜は沢山の読者という蟻を引き寄せた。80年代から90年代に掛けての「SWITCH」は、雑誌を媒介にした送り手と受け手の密度の濃いコミュニケーションがとれた幸せな蜜月時代だったと言える。
 
ある日、方向性の違いから編集長と喧嘩して「SWITCH」の仕事を辞めた私の元に、国書刊行会という出版社の若い編集者が訪ねてきた。35歳の私より7,8歳若かったK君は、自分が持ってきた海外文学のシリーズの装幀を是非お願いしたいと語った。オタク系に見える細身の彼は熱心だった。元々「SWITCH」のファンだった彼は私のアルファベット使いが気に入っていて、私が雑誌を辞めたのを知って依頼してきたのだった。その頃師事する先生もいなく、単行本の装幀など年に数冊ほどしか手懸けたことがなかった私は、少しの戸惑いはあったけれどその依頼を受けた。
 
しかし打ち合わせの最後に装幀料のことを尋ねると、3万円しかないという。大手出版社が10万円の時代にそれでは安すぎではないかと異を唱えると、そう言われるだろうと予想していたのか彼は意外な行動に出た。少し考えてからスーツの内ポケットに手を入れて財布を取り出し、テーブルの上に1万円札を一枚置いたのである。そして会社からは3万円の予算しか出ない。でもどうしても坂川さんにやって欲しいので、依頼のたびに自分が1万円出すというのだ。
 
私は困ってしまった。確かに安い装幀料だった。3冊装幀しても他社の1冊分にも満たない。彼のせいではなかった。そんな低い額しか提示できない出版社に腹が立った。でも私は嬉しかった。このご時世にまだこんな若者がいたのかと、その熱い心意気に感動した。
 国書刊行会のまだほとんど一般的には知られていなかった外国作家の、少しマニアックな海外文学シリーズはそうやって始まった。そして会社の手提げ金庫には毎回K君からの1万円が貯まっていった。私はそこそこの金額になったら彼と飲みに行こうと考えていた。
 
しかししばらくするとK君は国書刊行会では思ったような本が作れないことを理由に、福武書店(現ベネッセ・コーポレーション)の翻訳の部署ヘと会社を変わった。でも会社を変わっても彼本来の不器用さが裏目に出て、激務に身体を壊して退社してしまった。以来、彼とは連絡が取れなくなった。そしてしばらくの間金庫に貯まったままだったK君預金も、時間が経っていつの間にか使ってしまった。
 
特別に装幀家になりたいわけではなかった私が、雑誌デザイナーから単行本の装幀家への移行期に橋を架けてくれた彼のことは忘れられない。今でこそ普通に書店に並んでいる日本の海外文学本の黎明期に、彼が残した功績は思う以上に大きい。
 トークショーが終わり、K君の後を引き継いだ編集者と会場に並べられた50冊あまりの国書刊行会のシリーズ本を眺めながら、「よくこんな数をやりましたよね」と話をした。今は個人で編集者をやっている彼が付け加えるようにこんなことを言った。それを聞いた私は無性にK君に会いたくなった。
「Kとは同期入社だったからよくわかるんですが、当時彼の給料は確か11万くらいだったと思いますよ。とにかくあの頃は給料が安かったんですよ」

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